第91話    「自分の釣りは進化している?」   平成18年01月01日  

昨年の釣り方と今年の釣り方では違いがある。他人から見れば後退と見えるかも知れぬが、自分では多少の進化であると思っている。5年前と3年前そして昨年と比較して見ると明らかに違う点が幾つもある。ハリスは以前より確実に太くなっているし(0.60.8号⇒0.81.0号)、昨年まで当りが良く出るようにとガン玉の打つ位置を鈎のチモトに打っていたのだが、現在は少しずつ長くなって現在は原則として一ヒロと長〜くとって居る。そして以前より竿は長くなっているのに関わらず、バカは一ヒロ半から二ヒロ半から三ヒロと長くなっている。

釣り方にも毎年多少の違いが出ている。気分でやっているのか?自分でも良く分からないが、その年の魚が寄っているタナを探り、無意識の内にその年に釣れるような仕掛けや場所にあつた仕掛けの選別しているのである。そして一度その釣り方で成功すれば、次回もその釣り方で釣っている事もある。自然に逆らわず、変幻自在に釣れる仕掛けや場所を選んで釣ることも、これまた成功の秘訣のひとつと考えている。面白いことに前年と同じ場所で必ず釣れるとは限らず、同じ場所であっても魚がつく場所が多少異なる場合が有る。だから「自然ってェものは面白い」。パズルゲーム見たいなもので、ひとつずつ答えを導き出して、正解へとたどり着いた時の爽快さに似ているのである。今年も誰もが釣れないと諦めていた場所で、37,8cmを筆頭に最高43cmを上げている。釣れないのではなくて、釣れる仕掛けで釣れば釣れると云う見本である。

自分はその過程がとても好きだ。まして人が釣れなかった場所で、自分一人が釣り上げた時の爽快さは格別で、その格別の爽快感をしみじみと全身に感じながらひとり釣をする者である。だから釣れなければ過去に覚えた釣り方を色々と駆使して見たり、新しい釣り方にも挑戦したりもする。第三者から見れば気分屋とも見えるかも知れない。しかし、自分は至って生真面目であり保守的な人間でもある。ただ獲物を釣りたいが為の工夫も必要なだけなのだ。黙ってみているだけでは釣れない。だから、釣れてる人を見ているだけでも勉強になる。

昔の釣友達の中に少しの時間で釣れぬと場所を転々と移動したがる者が居たが、原則として自分は一度構えた場所は、殆ど移動はしない。それは釣れなくともその場所の根や障害物の場所等を良く観察する機会と捉えているからである。その場所をじっくりと観察しておけば次回の釣行に必ず生きて来ると云う信念があるからでもある。後日それらの蓄積によってその場所が、自分のHGとなり得るかどうかを判断する時に生きてくるのである。自ら苦労せずして絶対にHGは生まれてこないと云うのが、自分の持論である。

場所によっても釣り方が異なるのは当然であるが、魚を確実に捕らえるにはひとつの釣り方で良いと云う事はない。その日の天候や潮の具合を考慮し、その時に合った自分の釣り方で狙った魚を釣った時には、それこそ本当に釣ったと云う実感が湧いて繰る。それに反して自分が考えた釣り方ではない釣り方で釣れた時は釣ったと云う実感がは中々湧いて来ない。釣った釣れたでは、結果が同じでも釣り人にとっては意味が違うからである。

自分に納得が行く釣り方で魚を釣った時にのみ、無上の喜びが伴うのではないだろうか?その昔の剣術者が目指したと云う「剣禅一致」ではないが、「釣禅一致」の境地を目指して、怖い女房殿の目を盗んで、術の更新を楽しみに堂々と釣り場に向かいたいものである。